お父さん、よかったな。
みんな、お父さんの事を慕ってくれてるから、また集まってくれたよ。
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先日、私の父が癌で亡くなりました。
享年72歳、まだ早い死でした。
気分屋でわがままな父でしたが、そうは言っても家族の事を考えて、仕事が忙しい中でも、毎年夏休みや冬休みには、どこかへ旅行に連れてってくれる人でした。
また私達家族だけでは無く、父の両親や兄弟の事まで、細かく気を配る人でした。
特に自分の先が長く無いと感じてからは、父の母親(私の祖母)の事をかなり心配してました。
自分が元々面倒を見るつもりだったが、それも出来なくなったと兄弟と相談して末の妹夫婦に託したそうです。
4月半ばから入院して、それからは日に日に悪くなる一方でした。
亡くなる5日前に見舞いに訪れたときはあまり声も出せなくなり、うなづいて意思疎通を辛うじて行うような状態まで悪化してました。
それでも母の話では、亡くなる日も夕方に母が帰るまで、呼びかけには反応していたという事でした。
恐らく意識は直前まであったのだと思います。
亭主関白で子供の時は何よりも恐ろしかった父。
機嫌が悪いと母に怒鳴り散らし困らせる父。
私が反抗期の時に思いっきりケンカとなった父。
でも自分なりに私達家族の事を考えてくれていた父。
そして妻である、母の事を最後の最後まで想っていた父。
いつもは母が帰ろうとすると、少し嫌がる素振りを見せていたのですが、その日に限って夕方にすんなりと帰らせたとの事でした。
そして母が家に戻ってきて少し経ってから病院から電話があったそうです。
父、危篤の連絡でした。
入院している病院は近いため、母はすぐ向かったのですが、着いた時には父は、もう息を引き取っていたそうです。
自分の命がもう尽きると感じ、立ち会わせて母が悲しむような姿を見せたく無いし、そんな母を父も見たくないからそうしたのだと思いました。
私も残業中に一報を受け、急ぎ会社を出ましたが当然間に合う筈もなく、病院に着いた時には、苦しかったろう闘病生活から解放され、やすらかな眠りに就いた父と対面しました。
自分の家が好きだった父。
この日の夜、父が一生懸命働き築いた「自分の城」へ病院から、やっと帰す事が出来ました。
お疲れさま。
今までよく頑張ったね。
おかえり。
会社から病院までの道のりでは焦燥と、病院に着いたら疲労と呆然で涙なんか出なかったのに、この言葉を発した途端、なぜか涙が止まらなくなりました。
一夜明け、父が眠る実家にて葬儀店との打ち合わせを行いました。
その後は、次々に親族も集まる目まぐるしい1日となりました。
親兄弟の間では長男としてリーダーシップをとり、一家のヒーローだった父。
正月休みなど親族が集まる時は父を中心に場が盛り上がっていたのをよく覚えてます。
久しぶりに父を囲みながら、皆、父の死に悲しみ泣き、昔話では笑いながら親族一同、ほんの少しだけど一緒の時間を過ごしました。
中座し、少しだけ風にあたりながら煙草を吸うために外に出ようすると、玄関に父の愛用していたサンダルがあり、その周りを囲むように靴が脱がれて置いてありました。
それを見たらまた涙が止まらなくなりました。
そして、父のサンダルを履き外に出て皆に気付かれない様に1人泣きました。
打ち合わせも終わり、親族も帰り私もとりあえず一旦、自分の家に戻りました。
昨日今日で色々あって、疲れ果ててベッドに寝転ぶと、しばらくして、また涙が出てきました。
クルマ好きだった父。
新車のカタログを見ながら、まだ小さかった私の意見も聞きながら車を選んでいた父。
スキーに連れて行ってくれた父。
クルマを運転して、私と友達2人をスキーに連れて行ってくれた父。
友達の前で自慢する事が出来るほどスキーの腕前も一流だった父。
釣りや将棋、トランプ、キャッチボール、テニス…色々な事を教えてくれた父。
父との今までの思い出が浮かんできて、涙が溢れてしまい止まらない。
今は部屋に誰もいない。1人になって思いっきり泣く事が出来ました。
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通夜、告別式も滞り無く終わり斎場に着きました。
斎場で火葬される合間、空をぼーっとしながら見ていました。
癌の痛みに耐えながらの入院中、私の春日部マラソンのPB更新した話に、目を細めながら楽しそうに聞いてくれた父。
空を見ながらふと、その事を思い出しましたが、今度は不思議と涙は出てきませんでした。
お父さん、ありがとう。